歩いたら休め

なんでこんな模様をしているのですか?

マーク・ピーターセン「日本人の英語」を読みました

この間読んだ言語学の本で紹介されていて、読んでみました。

マーク・ピーターセン氏の『日本人の英語』『続日本人の英語』『心にとどく英語』には、英語を母語とする人々をいらいらさせるような日本人の英語が丁寧に取り上げられていて、読者はいや応なしにグローバリゼーション下の我が国の英語教育が、相互理解やコミュニケーションに役立つものには必ずしもなっていないということを痛感させられる。

概要はWikipediaを見たほうが良いでしょう。

ja.wikipedia.org

言語学習関係なく面白かった話もありました。

  • メイド・イン・ジャパンの商品は「笑うほど安価で、見掛け倒し」の象徴だったが、執筆時(80年代当時)は評価が変わっている(ただ、説明書のひどい英語は直っていない)。これって少し前の中国製品への目線にそっくりです。
  • 日本語の「えらい」とか「悔しい」を翻訳しづらいという話。
  • 「日本人の英語」という表現自体も翻訳しづらい。
  • 日本人の「宗教的無関心の気楽さ」。

特に「続」のほうは日本のいい面/悪い面をフェアに語られる内容も多く、特に最後のものが私にとっては印象的でした。「日本人の宗教的無関心」は気楽な面もあるという話で、J.D.サリンジャーの『A Perfect Day for Bananafish』を日本の英文学サークルで読んでいて、「Miss Spiritual Tranp」という表現の痛烈さが日本人の学生に伝わらなかったという話をしています。

その文学サークルで、英文上大きな問題となったのは、主人公が妻に対して使う、胸を刺すような皮肉の表現であった。妻が自分の母親と長距離電話で夫のことを話しているところで、

"......He calls me Miss Spiritual Tranp of 1948, the girl said, and giggled"

という。"Miss Spiritual Tramp"と呼ばれて、女性としてではなく、人間として侮辱された妻は、夫の批判の痛烈さを全然分かっていないから笑っているが、小説の要点とでもいえるこの台詞を読むと、読者はドキッとするはずである。

これはアメリカ人の思想的な前提があり、キリスト教文化で育った人間にとって「人間はみな個人として"Truth"に対して忠実に生きる義務」があり、この台詞には"Truth"に対して誠実でなく、戦争から帰還した主人公から見ると軽薄に生きているように見えるという意味だそうです。

善かれ悪しかれ、一般的なアメリカ人ー「神様」の存在なんてばかばかしいと思うアメリカ人も含めてーは、大文字で書くTruth(真)という絶対的なものがどこかにあると思っている。そして、それは自分という人間の外に存在するものである。人間は、真面目に良心的に考えれば、Truthfulな生き方が分かり、それに忠実に生きたい、あるいは、もっと厳密に言えば、人間には、自分の分かっている範囲で忠実に生きる義務がある、という妙な思想がある。これは、アメリカ人一般の暗黙の前提と考えてよいであろう。

これは日本人には、一部の科学者などは除き、ほとんど無い発想だと思います。著者も(どこかで読んだ話として)見知らぬ人に"Hi! I'm Jack Rodgers! What's your religion?"と尋ねることにはうんざりするが、「思想的前提」は意識していなかった、また、サリンジャー自身もそういう「思想的前提」は「自分がたまたま育った文化に固有の見方にすぎず、異文化にはかならずしも通じないかもしれないとは意識してなかっただろうと思う」と締めています。

Yahoo!知恵袋の回答もあったのですが、このニュアンスを伝えられるものになっていません。

「Miss Spiritual Tramp of 1948」このTrampという単語、昔の日本語訳で... - Yahoo!知恵袋