歩いたら休め

なんでこんな模様をしているのですか?

【本】『わざ言語―感覚の共有を通しての「学び」へ』を読みました

年末なので本ばかり読んでます。普段と違う環境だと本に逃げてしまうので、なんとかプログラミングに集中する方法も見つけたいです。

わざ言語―感覚の共有を通しての「学び」へ

わざ言語―感覚の共有を通しての「学び」へ

これも『コミュニケーション学がわかるブックガイド』で気になった本の一つで、後輩のレビューのときに「エラーの調査」や「プログラムの設計」の部分など、おそらく暗黙知に近く教えづらい分野もあったので、それをうまく伝えるヒントが無いか調べるために読みました。また、(趣味の)音楽関連でも、実際のスキルと少なくとも同程度には、立ち振舞いや暗黙の何かが重要になることが多いように感じています。

私たち実務者にとって重要なのは、やはり「(今すぐじゃないにしても)自分や周囲の仕事にどう役立てられるのか」だと思うので、抽象的な問題にハマってしまうより、具体的な問題意識を持って読む/自分なりにサンプリングして試すようなことは重要だと思っています。

本の内容はこちらにある通りです。

www.keio-up.co.jp

自分の問題意識から、気になったところだけピックアップします。とりとめない内容ですみません。

適応的熟達者について

P41 第二章 熟達化の視点から捉える「わざ言語」の作用

近年の研究において、熟達者は、知識・技能の柔軟性や創意によって、適応的熟達者(adaptive expart)と手際のよい熟達者(routine expart)に分けて考える捉え方がなされている。

チームの目標によって、どちらの熟達者がいいかは少しずつ変わりそうですね。私が興味がある(この本のテーマ的も)後者なのですが、こう説明されています。

適応的熟達者は、必要や興味関心に応じて熟達化を深化させ、新たな熟達の展開を行う。それゆえ、適応的熟達に向かう学習者は、新しいこと、より困難な課題、より複雑な問題状況に対峙するために、そうした状況の中にあえて立ち入り、身を置き、格闘せざるを得ない。すなわち探索的な初心者(intelligent novices)を経て初めて適応的熟達体験が得られるのである。

技術の創造と設計

技術の創造と設計

以前、こちらで紹介されている本も似たテーマだった覚えがあります。

「わざ言語」の作用の様態を説明する六つの側面

P53

①「わざ言語」は、熟達化の過程で本人が「こういうことかな」、「いい感じだな」と気づくための態度や、気づくことのできるような状態に導く手がかりを与える。ただし熟達化には時間を要する。

②「わざ言語」は、直接的に問題解決を導くのではなく、問題解決の核を導く。

③「わざ言語」は、必然性をもつ文脈の中で用いられるものである。その文脈とは当人が求める感覚の状態によって規定される。

④「わざ言語」は、段階を経る中で、自動的な段階へと導く作用力をもつ。ただし、それは単なる自動化された動きを意味するのではなく、感覚が管理された、感覚が上乗せされた自動的な動きを意味する。

⑤「わざ言語」は、受け止める人の状態や体験等によって作用力が異なる。したがって、わざを教え学ぶ場では、感覚の共有が重要な意味を持つ。

⑥「わざ言語」によって導かれる状態は、最終到達形としてあるのではなく、さらなる洗練が目指される状態である。わざの探索と熟考は継続的に行われる。

思考を妨げる「文字知」

P103

では、なぜ「文字知」を拒むのか。問題視されるのは丸暗記である。西岡が、それでは分かったことにはならないと言うのは、丸暗記が頭での理解を目指すからである(西岡、1991、230頁)。しかし、宮大工の「知」は体得すべきもので、「できるかどうか」が重要となる。「教科書にあるような木はないんやから、もしかしたら真ん中は使えないかもしれない。外側の白太を外したら予定通りの寸法を取れないかもしれない」(小川、2001a、140頁)

(中略)

つまり、弟子を丸暗記に誘い込み、「思考」を停止させる危険性の回避のために「文字知」が拒まれたといえる。いかにして「考える人」を育てるか。「文字知」の拒否は、弟子に「思考」を促す工夫として理解できる。

これは工学系の分野でもその通りだと思います。特にITのシステム設計みたいな分野だと、割と「机上の空論で理想論だけなら割とどうとでも言える」ので、似たコンセプトのものが混在していて意味分からない感じになってますよね。だから先に「いろいろ試行錯誤させて『見る目』を養った後で、知識を教えよう」って話もある程度納得感があります。

また、レベルアップするために「手放される言葉」もあるというのも面白い話でした。

2つの「わざ言語」

P120

しかし佐藤氏の中では二つの区別がある。「われこれ複雑に言葉を尽くすよりも、一つの言葉ですとんと直ってしまう」言葉、そして「何かの現象を直すのではなく、自らの対峙によって悩み納得し、そうせざるをえないという質的変化を引き出す言葉」という区別である。本書の実践編からは割愛されたが、佐藤氏自身の命名に従って、以下、前者を「寄り添い型わざ言語」、後者を「誘(いざな)い型わざ言語」と呼ぶ。

全然関係ないかもしれないですが、「Hackers and Painters」のこの言葉も、自分にとっては「誘い型わざ言語」だった気がします。

他のものを創る人々、画家や建築家がどうやっているかを見れば、 私は自分のやっていることにちゃんと名前がついていると気づいていただろう。 スケッチだ。 私が言えるのは、大学で教わったプログラミングのやりかたは全部間違っていた ということだ。 作家や画家や建築家が、創りながら作品を理解してゆくのと同じで、 プログラマはプログラムを書きながら理解してゆくべきなんだ。

看護について

先程の「誘(いざな)い型わざ言語」の具体例のような内容。以下の本から引用されたこの文言をきっかけに学んでいく姿が指摘されていました。

看護の基本となるもの

看護の基本となるもの

ある意味において看護師は、自分の患者が何を欲しているのかのみならず、生命を保持し、健康を取り戻すために何を必要としているのかを知るために、彼の"皮膚の内側"に入り込まねばならない。

助産師のリフレクション(振り返り会)

P356

ーーそのサインというのはどういうことなのでしょう。後進の助産師の中には、熟練助産師がサインを送っているのに意味がわからない。隠そうとしているのに産婦の前で「ああ、これ、危ないですね」と思わず言ってしまうような助産師もいるわけですよね。そのサインは、どうしたらわかるでしょうか。

村上 ある後進の助産師は、その助産所に勤め始めたころは、どうしても言葉で言ってもらわないと意味がわからなかったと話しています。ただ、その助産所の熟練助産師は、お産の後に必ず、後進の助産師と共に振り返りをして、「ここはこうだったね」、「ああだったね」とか、「こういうサインを送ったのはわかった?」とか、わかってないかもしれないと思うときは、そのサインについて確認をしていると話してくれました。わかったという感覚、あるいは、危険だという感覚を共有している、共感していると思うのです。